難しい
来週の報告が再来週に伸びたのは非常にうれしいけど、全然進まない。
ちょっと訳につまっているので、忘れないように・・・。以下は私のつぶやきのようなものなんで、読んでも、何言ってるのあなた?と思われると思うので、私がちゃんと勉強していることを確認したい人は、ちゃんとやっていますので安心してください。(ただ行き詰まってはいますが
)
第三世界の女性を「他者」としないで、テーマの主体にするにはじゃあどうしたらいいんだ?
批判の批判の批判はいつ終るんだ?
この作者は、marnia lazregのことを例示しているけど、アルジェリアを第三世界としてのアルジェリアとして例示しているのか、それともアラブ国家としてのアルジェリアとして例示しているのかがわからない。多分ここではアラブ国家として、アルジェリアの女性についての言及に触れているのだろうけど、結局西洋以外のものは、西洋の人間であっても西洋で訓練を受けた人間であってもステレオタイプの理論を採用し、「他者化」するといことを言いたいのだろうか。
だから、新しい見方、例えば差異に気がついたり、具体性の探求をする(ってなんだ、元は「explore the concrete」なんですが)アプローチが必要なんですか?
あと、西洋の学者は第三世界を自分の経験で当てはめて、女性をかわいそうな「他者」として表現することへの批判は、女性は「他者」として批判される対象ではなく、その考える主体となるべきだといってるけど、西洋で訓練を受けた人たちも結局、イスラム教とかアラブ女性を考えるとき、西洋のステレオタイプの知識によって、自分たちとは違う、”彼女たちは〜である”、と「他者化」してしまうっということなのかしら??だから誰が考えても「他者化」が避けられないのであれば、彼女達の持っている「差異」に気がついて、新しいアプローチを求め、具体的に異なる文化の中で女性達がどう生きているかということをステレオタイプではなく具体的に探求する必要性を受入れましょうということなんでしょうかね・・・・。そしてこの角度から第三世界の女性の生活を意味があって、筋道があって、理解可能で、私たちによって、悲しいとか不幸な(存在)とか吹き込まれるかわりに明らかにする「第三世界学」が求められるんですね。それで、差異を単なる定義にするのをさけるためめ、本土の学者(indigenous scholars と local scholars はどう違う?)この本土の学者って西洋で訓練受けた人なのかしら?二つの責任を引き受けなければならないそうだ。、でこの二つの責任、これがなんか抽象的でよくわからないのだけど、普及論と認識論的な決別に向けて取り組み、自分体の社会のジェンダー関係の構築の再評価が二つの責任なんですが、整理できてきているけど「普及論と認識論的な決別」って何だ?これは実は中国語に訳されたものもあるのですが、これまたわかりにくい、「在認知論上跟現存的論述決裂」って書いてあるんですが、「認知論」という言葉もなければ(認知は日本語と同じ意味しかない、現存論述はおそらく「現にある文献」なんでしょうが、そうなると英語の文と意味が合わないようなきがするんでるよね〜、ちなみに英語の分文章は[work toward an epistemological break with the prevailing paradigm]さっぱりわからないので、ヤフー翻訳にでも助けてもらうことにします。

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